2013年7月から2015年6月までの2年間、中米パナマ共和国で青年海外協力隊としてボランティア活動をしていた。
主に山奥の無電化集落で学校菜園やグループ菜園で野菜の育て方や食べ方、売り方を教えていたのだが、今はどうなっているのかずっと気になっていた。
青年海外協力隊時代の目標は「10年後まで残る持続可能な支援」をすることだったが、果たしてその目標は達成されたのか?
村人は今でも野菜を育てているのか、それとももう野菜栽培をやめてしまったのか……
パナマを立ち去ってから一年半しか経っていないが、その後が気になったので実際にパナマの無電化集落まで調べに行って来た。
【追記】この結果を受けて、青年海外協力隊へのメッセージを書いたよ。
・「イシューからはじめよ」青年海外協力隊の支援が継続するたった一つの方法
青年海外協力隊としてのボランティア活動
ぼくが青年海外協力隊として活動していたのは中米パナマ共和国で、期間は2013年から2015年までの2年間。
パナマ運河で有名な中米パナマ共和国
パナマは中米コスタリカと南米コロンビアの間にあり、中米最南端の国である。
パナマ運河がある国、パナマ文書が公開されたタックスヘイブンの国として有名。
・中米パナマのエンベラ族の観光ツアーに参加して感じた少数民族のジレンマと葛藤「伝統文化と近代化は両立するのか?」
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ベラグアス県カニャーサス郡の農牧省
ぼくが住んでいた村はベラグアス県カニャーサス郡の中心地で、そこにある農牧省支所で農業技師として働いていた。
そして、そこを拠点にしてカニャーサス郡に点在している無電化集落で農業技術を指導していた。
・青年海外協力隊の帰国直前に50名の農業技師へ野菜栽培のプレゼンをした真の目的
・青年海外協力隊の活動パターン!ぼくの2年間はマンパワー→ボランティア活動→マンパワーだった
・【青年海外協力隊の失敗エピソード】「日本に帰れ!」の一言がなかったら今頃ぼくは日本に帰っていただろう。
無電化集落での26回の泊まり込み調査&普及活動
青年海外協力隊時代はJICAが作成した要望調査票など無視していろんな活動をしていたが、特に力を入れていたのが無電化集落での滞在調査。
山奥に住んでいる村人の生活や価値観はなかなか理解できず、信頼関係を築くことも難しかったため民家に泊まり込むことにした。
そして、2年間で26回集落に泊まり込むことで、少しずつ彼らのことがわかっていった。
無電化集落の村人とは?
・大人は文字の読み書きはできない
・大人は学校に通ったことがない
・足し算はできるが引き算はできない
・子供は中学校までしか進学できない
・現金収入はほぼゼロ
・政府からの子育て補助金で現金がもらえる
・乾季になったら男はサトウキビ農園へ出稼ぎに行く
・男は毎日朝から発酵酒を飲み酔っぱらっている
・食事は朝晩の2回だけ
・子供は寄生虫や皮膚病にかかっている
・若者は町で肉体労働に就く
・地球は平らな台地で天動説を信じている
・飛行機は雲を作る機械だと思っている
・虹は雲が地面から水を吸い上げていると思っている
などなど、日本人のぼくからは想像がつかない世界で彼らは生きていた。
学校菜園で野菜の育て方を教える
そして、主に学校に通う生徒の親たちを集めて、野菜の育て方を教えていた。
・青年海外協力隊2年目、22回目の無電化集落の滞在で、ようやく気づいた活動の問題点。
・23回目の無電化集落滞在でぼくを待っていたのは、荒れ果てた学校菜園。
・26回目の無電化集落滞在で、ボランティア活動の最終調査をした
マサイ族よりもパナマの無電化集落の方がヤバイ
青年海外協力隊の任期が終わったあとに、南米ベネズエラのペモン族集落と東アフリカケニア共和国のマサイ族集落に泊まり込んだことがあるが、実は最も日本社会と状況が違うのはパナマの無電化集落だ。
秘境度で比べると、パナマの無電化集落>>ペモン族>>マサイ族。
マサイ族なんかよりもパナマの無電化集落の農民の方が、もっとヤバイ。
マサイ族の村は観光地化していて現金収入があり、外部からの情報も人も集まっているし、牛を飼っているので家畜と言う財産も持っているからね。
・【アフリカの秘境の裏側】マサイギャルに恋をしてマサイ族キャバクラに行ったマサイ村滞在最終日
一年半ぶりにパナマへ里帰りしている
2年間の協力隊の任期が終わったあとも、活動していた集落のことがずっと気になっていた。
青年海外協力隊が帰国するとすべてが元通りになってしまう
果たして野菜栽培は続いているのか?
実は「青年海外協力隊が帰国するとすべて元通りになってしまう」といわれるくらい、ボランティアが普及した活動を継続させることは難しい。
これまで4万人の青年海外協力隊員が途上国へ派遣されてきたが、いっこうに途上国の状態が改善されないのはこのためだ(もちろん、実際の開発援助はボランティアではなくJICAが行っているが)。
10年後まで残るような活動をしたい
ぼくは青年海外協力隊になるときに「10年後まで残るような活動」をする目標を立てて、それを意識して2年間普及活動をした。
途中経過ではあるが一年半経った今、ぼくのボランティア活動の結果を調べるためにパナマの無電化集落へ戻ることにした。
・1つの村に1つの技術を10年後まで !青年海外協力隊の最終目標はたった1つの適正技術を残すこと
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2年間ホームステイしていた家
まずはぼくがホームステイしていた家へ戻った。
ホストファミリーのママはぼくが帰国する時と同じように泣いて、再会を喜んでくれた。
家も庭も全然変わっていなくて懐かしかった。
ぼくはここに住みながら、無電化集落と行き来していた。
2年間一緒に働いた仕事の相棒と再会
青年海外協力隊には「カウンターパート」と呼ばれる仕事の相棒がおり、彼とも一年半ぶりに再会した。
彼はめちゃくちゃ誠実で仕事熱心だが学歴や政治的なコネがないため、ぼくの帰国と同時に僻地へ左遷されてしまった……
パナマ人の仕事の相棒は優秀な農業技師だけど以下の要因で出世ができず、ぼくの帰国と同時に僻地の支所に左遷されてしまった。
・大卒ではない
・政治的なコネがない
・先住民族の血が濃い
・真面目
・口下手
彼の口癖は「俺は生まれる国を間違えた。日本に生まれたかったよ」— 宮﨑大輔@パナマ (@JIBURl) 2016年12月19日
パナマの友人A「ヘアーアイロンを買ってこい」
パナマの友人B「買い物に付いてきて代わりに支払いをしろ」
パナマの友人C「とりあえず金をよこせ」
パナマの仕事の相棒「アジア、南米、アフリカでダイスケが学んだ農業知識の中でパナマの農村開発に役立ちそうな情報があればぜひ教えてほしい」— 宮﨑大輔@パナマ (@JIBURl) 2016年12月19日
一番力を入れていた無電化集落へ向かった
そして、ついに無電化集落へ向かった。
ぼくは任期中に数十個の集落を訪問したが、最も力を入れていた集落「ピエドラ・デ・アモラール」へ行って来た。
まずはこの車の荷台につかまって二時間ほど山道を登る。
そのあと、遠くに見える山のさらに先まで二時間半ほど歩く。
めっちゃキツイ。
途中には牛が放牧されているが、これは村人の持ち物ではなく町に住む地主のもの。
村人は鶏くらいしか家畜を持っていない。
ここがぼくがメインで活動していた無電化集落の中心部。
真ん中に見える道がメインストリート。
メインストリートを歩いていく。
ここが集落で一番栄えている場所。
こんな感じに山の中に家が点在している。
この集落には日本の外務省が扱う「草の根事業資金」で建てられた学校がある(ただし村人は日本という言葉を理解できないので中国の支援だと思っている)。
以前は泥でできた校舎だったが今はコンクリート製に変わった。
この学校には山の向こう側からも子供たちが通っている。
というわけで、ぼくが活動していた集落に着いたので調査を始めた。
果たして、ぼくが普及した農業技術は残っているのか!?
2年間のボランティア活動は無駄だったのか?? それとも意味があったのか??
【悲報】学校菜園もグループ菜園もなくなっていた
まずは、学校菜園へ行ってみた。
学校菜園は荒れ果てていた
苗床だった場所には雑草が生い茂っていた。
こちらが一年半前の姿だが、今は見る影もない。
そして、野菜畑も荒れ放題……
「炭と灰は有機肥料の材料にはなるけど、直接撒いても肥料にはならないから!!!!!」と10,000回くらい説明したけど、やっぱり直接撒いていた。
完全に栄養不足なピーマン。
まったく農作業が行われていない。
雑草だらけの野菜畑跡地。
赤くなった甘味トウガラシが収穫されずに残っていた。
腐ったトマトから発芽して野生化していた。
レタス畑がキャッサバ畑に変わっていた。
主食を育てるならそれはそれでオッケーだと思う。
キュウリや二十日大根を育てていた畑もキャッサバ畑に変わっていた。
この村には昼食を食べるだけの食料がないので、まずは主食を増やすのは良い判断だと思う。
キマメも育てられていた。
コンポストを作ろうとした形跡もあった。
ただし、農地は全体的に雑草だらけでまったく手入れはされていない。
トウモロコシを育てていた斜面には、今は何も育てられていなかった。
グループ菜園は閉鎖されていた
学校菜園とは別に指導していたグループ菜園にも行ってみたが、閉鎖されていた。
柵の外から見てみると、中は雑草だらけで荒れ放題。
全然野菜が育てられている形跡はない。
ぼくが居た頃はこんな感じに野菜を育てていたのに、継続することはできなかった。
残念ながらぼくのボランティア活動は失敗だったようだ。
以前はセロリがモリモリ育っていたのに。
カボチャも採れていたのに。
学校菜園とグループ菜園がなくなった理由
というわけで、学校菜園もグループ菜園も綺麗さっぱりなくなっていた。
これらがなくなった理由は以下の要因だろう。
・プロジェクトが崩壊し、ぼくも立ち去ったことで外部の人が来なくなりモチベーションが下がった
・ぼくが立ち去ったことで自分たちでお金を払って野菜の種を買う必要が出た
・村人たちはとにかく「共同作業」が嫌だった
理由はともかく、ぼくは自分の2年間が無駄だったように感じてめちゃくちゃ落ち込んだ。
絶望。
【成功?】ダイスケの名前は残っているよ
奇跡的にぼくが村を訪れた日は学校の卒業式だった。
たまたま学校の卒業式の日で、村人全員が集まっていた
おかげで学校には普段は町に住んでいる先生が来ていたし、村中から村人と子供が全員集まっていた。
一年半ぶりに訪問した日が卒業式なんて、これは本当に奇跡。
この日は一年で一番のごちそうが学校で振る舞われる(材料は町から運ばれるものだけど)。
村人から「ダイスケ」コールで迎えられた
「中国人のダイスケが帰ってきたぞー!!」と大喜びしてもらえ、村人数百人からダイスケコールで迎えられた(笑)
そして、みんなと挨拶して久しぶりの再会を喜んだ。
「ダイスケの名前だけが残ったわね」と言われる
村人や学校の先生から「もう学校菜園のプロジェクトは上手くいっていないんだ」「プロジェクトは消えたよ」「学校菜園は荒れ放題で野菜はないよ」といわれた。
ぼくが帰ってきたのに学校菜園が荒れ果てていることをみんな気にしているようだった。
そんな中「プロジェクトがなくなって、学校菜園がなくなって、でもこの村にはダイスケの名前だけが残ったわね。みんなあなたのことを忘れていなかったし、ずっとあなたの帰りを待っていたのよ」といってもらえて泣きそうになった。
青年海外協力隊はウルルン滞在記のような異文化交流の側面もあり、それは上手くいったようだ。
ぼくも村人たちも本当の友人になれたと思う。
帰るときには「せっかくだから、俺の家で採れた大きな長芋をぜひ持って帰ってくれ! ダイスケに食べてもらいたい!!」とプレゼント攻撃してくる村人を説得するのが大変なほどだった(笑)
無電化集落に滞在中に民家で寝ていたら酔っ払った村人が訪ねてきて「ダイスケ大好き。村に帰ってきてくれて嬉しい。お前は俺の息子だ。ダイスケ大好き」と同じ話を一時間以上聞かされて困ったけど嬉しかったです。
— 宮﨑大輔@パナマ (@JIBURl) 2016年12月21日
子供に折り紙をプレゼントして遊ぶ
学校では子供たちともいっぱい遊んだ。
一年半も経つと幼女が少女になり、少年が青年に変わっていた。
以前は歯が生え変わる時期で歯がなかった子供にも歯が生えていて、思春期を迎えた男の子がヒゲを生やしていた。
折り紙を持って行ったので50羽ほどパタパタ折り鶴を作って配った。
これさえあれば、途上国でモテモテになれる。
・たった一枚の折り紙で途上国に暮らす子供たちのヒーローになる裏技
子供に一眼レフの使い方も教えてみた。
村人の年収以上の値段のカメラを幼児に持たせて、ぼくはドキドキ。
ぼくもスマホを使って、写真を撮り合った(笑)
彼が後の天才写真家である。
こんな感じの写真を撮ってもらったよ!
いい写真だろ~!?
お洒落な影の写真も撮ってみた。
子供と久しぶりに遊べて楽しかった。
一年半ぶりに集落へ戻ったら、大人も子供も喜んでくれて嬉しかった。
無電化集落でもソーラーパネルを使ってスマホの充電をして、Twitterをした。
電気も水道もない村だけど山の上に登ればネットは届いていたので、ここでも海外の企業相手にノマドワークができた。
・Amazonのほしい物リストを公開したらネパールからプレゼントが届いた!Keiさんありがとうございます
いつも通り民家に泊まらせてもらう
昼間は農業の調査と学校で先生や村人や子供と話しまくったので、あっという間に夜になってしまった。
いつも泊めさせてもらっていた民家に今回も泊めさせてもらった。
電気がないので夜はヘッドライトが必須。
夜はベッドの下に鶏の親子が来るので一緒に寝る。
そして、頭の上にはコウモリが飛び交っている。
家の周りには巨大なヒキガエルがうじゃうじゃいる。
このカエルはパナマ名物で、いたるところで車に轢かれて死んでいる。
【成功】家庭菜園は継続していた!
「あぁ~、学校菜園もグループ菜園もなくなっていたので、ぼくの青年海外協力隊の目標は達成されなかったなぁ」と落ち込んでいたが、意外な発見があった!
隣りに住んでいる村人とおしゃべりしようと思って、彼の家に行ってみると……
家庭菜園は今でも継続していた!
なんと、庭でトマト栽培をしていた!
実は青年海外協力隊時代に、この村で「家庭菜園」も普及していた。
・19回目の農村滞在にJICAのカメラマンも同行し、学校菜園と家庭菜園と焼畑稲作の調査をした。
・21回目のコミュニティ宿泊で学校菜園の指導、家庭菜園の種配り、伝統稲作の調査を行った。
共同作業を嫌う村人が多く、個人作業を好んでいた
学校菜園やグループ菜園といった共同作業は失われていたが、家庭菜園という個人活動は継続していたのだ。
ぼくが活動していたときから村人たちは「共同作業はイヤだ。仕事をサボっている人が居るのに彼らにも収穫物を与えないといけないから。働いた分だけもらえる個人作業の方が絶対にいい!!」と言っていた。
ただし、農牧省やJICAという組織上は個人への支援は不平等のためできないので、学校菜園やグループ菜園のためにわざわざ村人の班を作っていた。
そして、その班活動はまったくうまく機能していなかった。
家庭菜園で野菜の育てること、食べることは継続していた
学校菜園やグループ菜園の目的は「家庭菜園で野菜を育てるために農業技術を学ぶこと」だったので、家庭菜園が残っていることは嬉しかった。
わずかではあるが野菜を食べる習慣や育てる習慣が定着したようだ。
ほんの少しはこの村に農業の側面から変化を起こせただろう。
任地へ里帰りして、ようやくぼくの3年半の任期が終わったような気分
この翌日、また2時間半ほど山道を歩いて、車に乗って村まで帰った。
そして今は首都のパナマシティにいる。
ようやくこれでぼくの青年海外協力隊が終わった気がする。
ぼくが居なくなってから一年半後の任地を見たことで、ようやくボランティア活動に一区切りをつけることができた。
まるで青年海外協力隊の任期が3年半もあったみたいな感覚。
ぼくが居なくなったことで元に戻ったこと消えたこともあったし、消えていなかったこと残ったこともあったと自分の目で確認できた。
「自分の活動に意味はあったのか??」とモヤモヤしている協力隊OBOGには任地への里帰りをおすすめする!
とてもスッキリするよ!!
【追記】
この結果を受けて、青年海外協力隊へのメッセージを書いたよ。
・「イシューからはじめよ」青年海外協力隊の支援が継続するたった一つの方法
まとめ
今回は、青年海外協力隊として活動していた村に里帰りした様子を紹介した。
学校菜園とグループ菜園は崩壊していたが、家庭菜園と村人との絆は残っていた。
「青年海外協力隊の活動に意味はあったのか??」とモヤモヤ悩んでいる協力隊OBOGには、任地への里帰りをおすすめする。