ぼくのご先祖様の話が面白い
今日、アルバイト先の桃農家でお茶を飲んでいると、たまたま一緒に居合せた近所のおじさんが歴史マニアで、ぼくの家(宮﨑家)の歴史について詳しく教えてくれた。
今までは特に自分の家柄について気にすることなく過ごしてきたが、歴史マニアのおじさんの話が面白かったので自分でもネットで調べてみると、思っていた以上に面白い話が見つかった。
どうやらぼくのご先祖さまは宮崎太郎という武士で、大化の改新を起こした中臣鎌足の子孫らしい(笑)
「ほんまいかいな?」と思うような話だが、いろいろ調べてみたので紹介しよう。
全国に散らばる宮崎一族
日本中に「宮崎」あるいは「宮﨑」という名字の一族が散らばっている。
地域的には少ない土地もあるかも知れないが、宮﨑駿(映画監督)、宮﨑あおい(女優)、宮﨑大輔(ハンドボール選手)などの有名人がいるので、おそらく全国的にわりと有名な名字だろう。
全国名字ランキングでは、宮崎は67位くらいだそうだ。
1.宮崎が生まれたのは宮崎県
宮崎一族の出身地は、ズバリ宮崎県らしい。
宮崎県で生まれた性だから宮崎という説もあるし、宮崎氏が住んだから宮崎県になったという説もあるそうだ。
ぼくは大学生時代に「宮﨑という名字なのに宮崎県に行ったことがなくては恥ずかしい」と思って、宮崎県までヒッチハイクで行ったことがあったがそれは帰巣本能だったのかもしれない。
2.富山県の宮崎氏
宮崎で生まれた宮崎一族は、その後全国各地に移動する。
九州、北陸、東北、甲信越などに移住したようだ。
その中でも大きな勢力になったのが、富山県の宮崎氏。
「宮崎太郎長康」という武士が城主だったそうだ。
中臣鎌足の子孫、宮崎太郎長康の行方は?
富山県の宮崎城の城主、宮崎太郎長康について調べてみた。
1.中臣鎌足(藤原鎌足)の子孫
宮崎太郎長康は、大化の改新を起こした中臣鎌足(のちの藤原鎌足)の子孫と言われているそうだ。
「たいかのかいしんのなかとみのかまたり」なんていう言葉を口にしたのは、中学の歴史の授業以来だ。
宮崎太郎長康(以下宮崎太郎)の祖先は、飛鳥時代に天皇制を確立して大和国家統一をめざした中大兄皇子(なかのおおえのみこ・後の天智天皇)の腹心として大化改新(645)を推進した、大政治家であり万葉詩人としても知られている中臣鎌足(なかとみのかまたり・後の藤原鎌足:614~669)です。
※一部省略
その後、子孫の井口蔵人は、佐味郷(今の黒部川東部の朝日町、入善町、黒部市の一部)に住むようになり、さらに井口光範の子孫が「宮崎家」に還って、宮崎太郎は、初代宮崎城主になったといわれています。
引用:「歴史探訪」木曽義仲
宮崎太郎の先祖が中臣鎌足というのは、家系図も残されているので信頼できる話のようだ。
2.宮﨑城城主と我が家に伝わる言い伝え
富山県の宮崎氏は信濃国・信州国=現在の長野県と取引をしていたと言われている。
また、佐味庄・大家庄・宮崎庄・入善庄といわれた荘園を管理し、佐味太郎とともに、山林・田畑の開拓・開墾に努めて材木や穀類を生産し、信濃国・信州国とは海産物やヒスイ石・黒曜石(こくようせき)などを取引していたと考えられます。
引用:「歴史探訪」木曽義仲
3.木曽義仲との仲
また、宮崎太郎は木曽義仲と深い仲にあったようだ。
その年の9月頃、木曽義仲は宮崎太郎長康の館へ来て北陸宮と初対面、以後、木曽義仲の庇護を受けることになり、その手始めとして、北陸宮の還俗(げんぞく)式と元服式を行うために、木曽義仲の守り神である信州諏訪大社下社の大祝(おおほうり)金刺盛澄に命じて分祀(ぶんし)させ、宮崎太郎に約1ヶ月で諏訪神社と神宮寺を建立させました。
引用:「歴史探訪」木曽義仲
しかし、木曽義仲が討ち死にしたことにより、宮崎太郎の夢は潰えてしまった。
木曽義仲が近江国粟津で源連合軍に敗れて討死し、巴御前は信濃国へ逃れ、さらに北陸宮は源頼朝の命により、京嵯峨野衣に隠居になり、自分の夢をかけた木曽義仲の天下取りと、北陸宮の皇位継承という夢は完全に絶たれました。
引用:「歴史探訪」木曽義仲
4.宮崎太郎が飯田市座光寺へ?
木曽義仲が死んだ後の宮崎太郎の消息には、いくつかの説があるようだ。
宮崎太郎のその後については、いろいろな説がありますが、宮崎党の一部を連れて信濃国へ行き、そこで新たに宮崎家を再興した記録が残されており、越中国に残った人達は、佐味太郎の計らいで、今の黒部市石田地区荒町へ移住して、「良田が石田になった」といわれるように、黒部川の度重なる洪水で荒れ果てた田畑を開墾開拓したと考えられ、いまでも黒部市には50軒あまりの宮崎姓の人々がおられます
引用:「歴史探訪」木曽義仲
別のサイトには、長野県飯田市上郷へ逃げてきたと書いてある。
飯田市上郷とはぼくの実家がある飯田市座光寺と隣接する地域で、100mほどしか離れていない目と鼻の先である。
# 富山県の宮崎家: 越中国宮崎(富山県朝日町)をルーツとし、藤原北家利仁流というが未詳。宮崎氏が住んで宮崎の地名ができたとも言われる。木曽義仲の出兵に従い、義仲が敗れた後には信濃国伊那郡黒田荘(長野県上郷町)に逃れて土着した。
引用:「宮崎」の名字の由来
また別のサイトには、なんと我が家の本家が掲載されていた。
このサイトに映っている家で生まれた祖父が別家し、我が宮﨑家が誕生した。
どうやら我が一族は「宮崎太郎の子孫」を自称しているらしい。
木曽義仲の死後、宮崎太郎は信濃国に入り館を構えたとされ、その跡とされる所に現在でも宮崎太郎の子孫と称する方が住んでいる。
家の入口には「南無阿弥陀仏」と彫した宝永7(1710)年の墓碑がある。
引用:宮崎城跡
そして、上の文章に書かれている祖父が生まれた家には、現在このような看板が設置されている。
「富山県の宮崎城のお殿様が鷹狩りをするためにここに来て、我が宮﨑家が生まれた」という言い伝えも祖父から聞かされているし、我が家には武士を祭った祠と武士を弔ったとされるお墓がいくつもある。
もしかしたら、太郎さんのお墓かもしれない。
ぼくのご先祖さまは、中臣鎌足かもしれない
調べた結果、ぼくのご先祖さまは大化の改新を起こした中臣鎌足かもしれないとわかった。
日本中に中臣鎌足の子孫は何百世帯もいるだろうけど、それでも意外なことだったので調べてみて驚いた。
このことを中学生の頃に知っていたら、中臣鎌足さんに親近感を持ち、もっと歴史の勉強を頑張れた気がする。
まとめ
歴史マニアのおじさんの話が面白かったので、長野県飯田市の宮﨑家のことを調べてみたら、中臣鎌足の子孫である可能性が浮上した。
鎌足じいちゃんの名に懸けて、大化の改新 ver2.0を起こしたい。
関連記事
宮﨑大輔の本棚!Kindleで読めるおすすめの電子書籍を紹介!